■ 創業者近藤秀吉のふみあと ■ 新潟の船大工の稲野勘三郎のもとで住吉神社の御座船建造などに関わり、船大工として活躍していた近藤秀吉は関東大震災の復興事業へと目を向け、持前の俊敏さと船大工としての技術を生かし、銭高組の配下として永代橋を始めとする隈田川の数々の架橋に、鳶工として震災復興事業に青雲の身を投じた。昭和になって故郷新潟へ戻り清水組(現清水建設㈱)の名義人である流作場西口組に入社して、地元新潟でその技術を発揮、万代百貨店(現大和百貨店)や北越パルプ(現北越製紙)の建設にたづさわってきた。 |
■ 「近藤組」を創業 ■ 不惑を超えた近藤秀吉は、請負業の専業化の進むなか土木建築の重要性と将来性に注目し、旧友本間石太郎らの独立に刺激され、自らの強い意志で昭和14年(1939年)8月に個人企業「近藤組」を創業した。折から日中戦争の最中である。戦争による景気のなか、旧知の清水組との関わりで島本鉄工所(内野)の工場建設などに活路を見いだし、順調に事業の伸展を図った。 |
■ 情けは人の為ならず ■ 折悪しく第二次世界大戦の激化により、国策としての企業整備令により企業の合併を余儀無くされ、自らは昭和硝子に徴用された。捕虜60人の監督の任にあたった。食料事情の悪化を見兼ねて自らも苦しい中で捕虜とて人の子と、毎日握飯を作り与えた人情家でもあった。戦後これらの業績が評価され進駐軍の司令官宿舎として、新潟市旭町の新津氏邸の改装工事をおこなった。 |
■ 株式会社近藤組の設立 ■ 昭和30年(1955年)9月、新潟大火の復興も一段落した昭和35年(1960年)5月株式会社近藤組(資本金3,000千円)を設立し、近藤秀吉が取締役社長に、前社長近藤英雄が専務取締役に就任した。近藤秀吉は逐次資本力をつけ、重機械をはじめ各種施工機械並びに船舶の拡充を行い、港湾海岸部門への進出に続いて、建築部を設立し、名実ともに総合建設業者としての地歩を固めた。 更には、新潟市建設業協会理事、新潟県建設業協会理事をはじめ、清水建設㈱兼喜会支部長、㈱本間組石友会会長等の要職を務め、建設業界の発展に尽力するとともに、創業以来の旧友である新潟市議故加藤大輔を通じて、故郷新潟の開発と発展にその意を注いだ。 昭和39年に新潟大地震(マグニチュード7.5)に見舞われる。県内建設業者とともに、地元の業者として自らも災害を受けながら、全社を上げ心血を注いで、その復旧事業に実績をあげている。続いて発生した加治川、加茂川の大水害の災害復旧事業にも、積極的に取組んで成果を残し、関係方面から大きな評価を得た。 |
■ 公共事業への進出 ■ 帝国石油秋田工場、川崎製鉄千葉製鉄所、青海の姫七発電所の建設にと業績を積み上げていった。特に昭和24年(1949年)から昭和33年(1958年)の9ヵ年に及び佐渡羽茂村における、土地改良事業で農業用ため池の築造工事は、初めての公共事業での継続工事として、その機動力と技術力を高く評価された。 橋梁工事においては、月潟橋、小千谷旭橋、国鉄加治川鉄橋、阿賀野川鉄橋など数多くの橋梁を手掛けた。特に与板橋の架橋に於いては、地元の苦境を見兼ねその求めに、採算を度外視して積極的に応援をするなど、建設業界に人情家近藤秀吉の評価を高めた。 そして、昭和32年(1957年)4月前社長近藤英雄が家業専業者として入社している。 |
■ 事業への積極的な展開 ■ 関屋分水路事業、新潟東港、新潟バイパス、上越新幹線、北陸高速自動車道などの大型プロジェクトに積極的に関与し、併せて地盤沈下対策事業へのとりくみ、更に土地改良事業への広範な参画をしていった。建築部門でも、関東財務局金鉢山、松浜住宅をはじめ長岡技術科学大学学生寮、船見下水処理場、県営・市営住宅など公共事業に進出している。不動産管理営業として”ヴィラ松波”をはじめ3棟のマンションを経営し企業の多角化へと伸展させた。 昭和55年(1980年)には近藤英雄が取締役社長に就任、決断力と積極性を発揮し、昭和30年代から手掛けてきた阿賀北地域への更なる発展を期して、豊栄営業所を開設しその地歩を堅固なものにした。続いて下水道施設事業への展開とともに推進工法部門へ進出して、着実に実績を上げている。 |
■ 安全は企業のかなめ ■ 工事の安全施工ゼロ災害は建設業の責務であるとして、近藤英雄はその意を注ぎ、全社的に工事の施工体制、安全管理体制の点検を行い、”日々の安全”、”無災害の積重ねが企業の繁栄に通ずる”との理念のもとに、安全無災害運動を始めた。 平成21年8月に創業70周年を迎えるにあたり、今後業界全体はさらに冷え込むことを見据えた近藤正は、亡き父の意思を継ぎ同業他社に先駆け、安全衛生マネジメントシステム「COHSMS(コスモス)」の認証取得を決断。同年度中に新潟県で初めての認証取得となった。 |
■ ISO認証取得 ■ 平成11年(1999年)8月に創業60周年を迎え、近藤桂司はこれからの建設業界はより一層の顧客への品質保証及び地球環境への配慮行うべきであるとして、国際標準規格(ISO)の認証取得に向け、「品質環境部門」を新たに設置し、システム作成に着手した。 品質システムと環境マネジメントシステムは本来共にあるべきと考えた近藤桂司は、品質システムと環境マネジメントシステムをそれぞれ別個のシステムとして作成するのではなく、品質・環境システムという位置づけでの認証取得をめざし、平成12年(2000年)8月31日全国でも稀である ”連動システムの認証を取得することに成功した。 現在、「全社員内部監査員体制」で、より精度の高いシステムへと育っている。 |
■ 新しい企業へ ■ 情報技術(IT)の進む中、近藤桂司はこれに遅れをとるまいと積極的に情報技術の拡充を行い、現在では社内はもちろん、対協力会社とのネットワークの基礎も整備し、作業所管理に於いても拡充を行った。 20世紀から21世紀にかわり、、これらの業績と信頼・信用を生かし、又礎として、技術開発に、人材育成に力をいれて、近藤組は新しい歴史のなかから明日へ向けて前進を続けている。 |
■ 不況にも負けず ■ 公共事業の先細りを見据えた近藤正は社長就任直後より「民間発注工事へのシフト」を素早く決断し、その体制を整えた結果、平成19年度には同業他社が軒並み売上を落とす中、民間発注工事の受注総額が近藤組史上最高額となった。 |
■ 創業75周年を迎えて ■ 長い時を積み重ねてきた伝統を大切にする一方で、日々変化する時代に対応すべく、使い古されたシステムに躊躇なくメスを入れ、近藤組は今日も進化し続けている。 |